畳の歴史的背景

畳の歴史

畳の語源は「たたむ」で敷物全般を表す言葉でした。

畳はもともと、現代の知られている「畳」を指していたのではなく、「畳んだり重ねて使用するもの、床に敷いてあるもの」といった、敷物の総称のことを指していたのです。

日本最古の歴史書「古事記」には、「菅畳」、「皮畳」、「絹畳」の記述があります。

この頃から「畳」があったと推測されます。

日本は、中国から伝わった文化が多いですが、畳 (たたみ)に関しては、日本民族が、湿度が高く天候の変化が激しいという独特の気候を持つ日本の風土で、生活の中から生み出した固有のものです。

現存する最古の畳とは?

畳の歴史
天皇皇后が休まれた畳のベット

現存する最古の畳は奈良東大寺の正倉院にある聖武天皇が使用した「御床畳」(ごしょうのたたみ)というもので、木製の台の上に置かれ ベッドとして使われたものです。この台を二つ並べて寝床として使われていました。

現在の畳と同じように真薦(マコモ)を編んだ筵(ムシロ)のようなものを5~6枚重ねて床として、表にイ草の菰(コモ)をかぶせて錦の縁をつけたものです。

畳歴史年表

縄文時代・弥生時代(約1400年前)

竪穴住居に稲わらを敷き詰めていた形跡がいくつも発見されております。

畳なんて姿形も無かった古代の日本において、私達の先祖である縄文人達は、稲わらなどの資源を活用して敷物をつくり出していました。


奈良時代(710年〜784年)


「古事記」に菅畳・皮畳・絹畳の記述、「日本書紀」に八重席薦の記述、「万葉集」に木綿畳・八重畳の記述が確認されています。
現存する最古の畳から、聖武天皇のベットにワラの畳が敷かれていたことが推測できます。


平安時代

平安時代には畳に厚みが加わり現在に近い形になります。現在のように敷き詰められたものではなく、必要な場所にのみ畳を置いていました。

身分によって畳の大きさ・厚さ・畳縁の色が定められたそうです。
板の間に今で言う座布団の代わりに敷いたり寝具として家の中のあちこちに畳が置かれました。
この頃は畳を使えるのは貴族など特権階級のみで、まさに権力の象徴だったのです。

貴族は畳、庶民はムシロ・コモが一般的になりました。


鎌倉時代

鎌倉時代から室町時代にかけ書院造が生まれて、部屋全体に畳を敷きつめる使い方に発展します。
平安時代では座布団のような座具であったり、寝具に使われていた畳がこの時代あたりから家の中の床材に移行していきました。

この時代の畳職人は「畳差」「畳刺」などと呼ばれていました。


室町時代

部屋全体に畳が敷き詰められ、「座敷」と呼ばれるようになり、敷き方なども格式化されていきました。この時代のあたりから日本固有の正座がされるようになります。

正座も畳が部屋に敷き詰められるよう になったために生まれた座り方だったのです。正座も畳が部屋に敷き詰められるようになったために生まれた座り方だったのですね。この時代の畳職人は「畳大工」と呼ばれました。

この頃、大阪に畳屋町が出来たと言われています。


安土桃山時代

さらに桃山時代さらに江戸時代に至るなかで、数奇屋造や茶道が発展と合わせて畳も普及していきます。

美意識を見出すなど、精神性の高い芸術品へと昇華していきました。

この頃から庶民・町人の家にも徐々に畳が使われ始めます。


江戸時代

徳川幕府の役職として「御畳奉行(おたたみぶぎょう)」という役職が作られるほど、畳は建築において重要な要素とされました。役職として「御畳奉行」は武家などには大切にされ、将軍や大名には特に重要なものになりました。

江戸中期には町人にも畳は使われ始めます
江戸後期には野生のものを使用してたイ草は本格的に栽培が始まり、畳を作って生業とする「畳職人」「畳屋」という職業が確立していきます。広島藩宮崎安貞が「農業全書」にい草の栽培法を記載したことから分かります。


明治時代

柄などの畳の規制が解かれて、畳は一般社会に広く普及し始めます。表がやけたら裏返しをするなど、 畳が傷むのを防いで長く使う工夫も広まりました。この頃からの知恵と工夫が現在の施工方法(表替え・裏返し)に繋がっていきます。


昭和時代

一般家庭で広く使われていくことで、家族団らんの象徴として「日本人といったら畳」というアイデンティティが浸透していきます。

高度経済成長期と共に人々の生活も西洋風になり、和室に座る生活から椅子やソファに 座る生活へと変わっていきます。カーペットなどが普及していきますが、それでも家の中は畳の部屋が基となっていました。